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![]() 五嶋英門「Invisible wall」 1月14日 – 2月18日 12:00 – 19:00 水曜日 – 土曜日 場所:ZENSHI http://zenshi.com/information/ Hidekado Gotou“Invisible wall” January 12 – February 18 12:00 – 19:00 Wednesday - Saturday 五嶋英門は、ヒップホップミュージックのトラックメイカー(制作者)としての活動もしており、今回の展覧会はその活動の中から生まれた別の可能性についてのものとなります。 五嶋が感じた音楽制作の別の可能性とは「制作され、記録された音楽を聴く」という行為を、固定された音場(例えば、一般的な音楽体験は未だに右と左のスピーカーから生じる音のバランスによって作られている)のような限定的な空間性から解放すること、を目的としたものです。一般的な市場に流通する録音物というのは、記録された音と、それをしまうケース(ジャケット)のアートワーク、またはMV(ミュージックビデオ)、そしてライブ、によって作品世界が形成されますが、それらを一体化したものとして空間の中に展開し、統合された世界観として表現する、という試みでもあります。 ヒップホップミュージックとは、素材として「既成の音楽」から切り出したものを様々に組み合わせ、全く別の機能を持った音楽を作り出すものです。特にヒップホップでは、ある切り出された音のパターンを反復することで立ち現れる特異な身体感覚(それはグルーヴと呼ばれます)が重視されます。 五嶋は、全ての切り出された文脈が、最終的にグルーヴという原始的な身体性に還元されるのがヒップホップの魅力だと言います。 この展覧会は、その「素材」となるものを、アナログレコードやmp3のような限定的な「データ」から、作家が認識し、手を触れることができる全てのもの、つまり「世界全体」へと拡張し、それを切り出し、並置し、反復させ、ある特異な空間を立ち上げようとするものです。 その拡張された空間では、作家の世界への印象、自然、宇宙、社会観、死生観が、幾重にも重なった階層構造の中に垣間見られます。それは鑑賞者に、目の前で音楽が演奏されることとも、録音されたものを鑑賞することとも異なる、新しい体験を提供することになるでしょう。 ![]() 関連企画のお知らせ******************************** 「MISAKO & ROSENのキワマリ荘」 有馬かおる&五嶋英門 1月28日(土) 16:30〜17:30 @MISAKO & ROSEN 共同企画:ZENSHI この度MISAKO & ROSENでは、現在個展開催中の有馬かおるが、おなじみ「キワマリ荘」をギャラリーに持ち込んで一日限りのライブパフォーマンスを行います。 共演するのは、ただ今ZENSHIにて展覧会「Invisible wall」を開催中で、現「水戸のキワマリ荘」の管理人、五嶋英門。 有馬かおるが即興で制作するドローイングに合わせ、音響のライブパフォーマンスを開催します。 コタツに入りながら、観客の前でドローイングを披露するのは、有馬かおる。 会場風景とか、観客とか、人物を中心にして、記憶の中にある風景なども加えてスピード感あふれるドローイングを発表します。 また、紙には盗聴器。そして、有馬かおるの心拍音。 それらの音を五嶋英門が電子変調し、ミックスしていく音楽をスピーカーから流していきます。 変換された音に影響を受けながら、さらにドローイングは続いていくでしょう。 パフォーマンス終了後、ZENSHIにて開催中の、五嶋英門の展覧会ツアーを開催します。作家がパフォーマンス後ZENSHIに移動いたします。有馬かおる展をご覧になった後、ぜひ五嶋英門展も合わせてお楽しみ下さい。 五嶋英門 「Invisible wall」 1月14日 – 2月18日 12:00 – 19:00 水曜日 – 土曜日 — Hidekado Gotou “Invisible wall” January 14 – February 18 12:00 – 19:00 Wednesday – Saturday ZENSHI ゼンシ 101-0033 東京都千代田区神田岩本町4 http://g.co/maps/ry24x 4 Iwamotocho Kanda Chiyoda-ku, Tokyo 101-0033 Tel: 03 6206 8078 Fax: 03 6206 8079 E@zenshi.com http://zenshi.com/ “その点で、ユングが伝える未開人の話は、顧みるに値しよう。彼ら未開人たちが何時間もずっと座ったままでいるので、《何をしているのですか》とか《何か考え事をしているのですか》とたずねると、彼らは怒り出して、《狂った人間だけが考える。彼らは頭で考える。私たちは考えたりしない》と答える。ユングは言っている。もし彼らが考えたとしても、彼らは腹や心で考える。ある黒人の種族は、肝臓や腸や胃を混乱させる思考しか実際に知らないので、我々に思考が腹に存在することを得心させてくれる、と。 またプエブロ・インディアンはユングに、アメリカ人は皆狂っている、と言った。ユングが理由をたずねると、《そうですね、彼らは頭で考えるからです。しっかりした人は頭では考えません、われわれは心で考えます》と言ったのだった。これは無意識のレヴェルでは、精神や思考が心臓や腹にあることを示しているのではなかろうか。” プエブロ・インディアンの話はルソー『エミール』、上二七〇ページ。 中村 雄二郎『共通感覚論』 (岩波現代文庫―学術) (文庫)、第三章二五二ページ
*陰謀論。
陰謀論というのはオカルトの一種で、大雑把に言うと「科学」と「宗教」のどちらにも属さない「民間信仰」のようなものだ。 陰謀論にはスケールの大小が極端にある。 国内の政治家に対する疑い、飲食店などの企業に対するソレから、イルミナティとかのアレまで。 これらの共通点を強引に纏めるなら「近代国家及び資本主義のシステム」に対するソレであると言っていい。 これは恐らく、中世からそれ以前に人々が大自然に大して抱いていた感情そのものだ。 大自然と資本主義経済のシステム、共通するのは「我々の手には負えない」という畏怖の意識だ。 私は一般的な陰謀論のファンだが、普通に考えて、陰謀論というのは、社会に対して、 もっと主体的になることで解決可能な喫緊の問題を、無駄にスケールのデカイ陰謀論で 「何しても無駄」で逃げてしまうという傾向があるように思うので、それはとても悪いことだ。 *「箱」の使い方について 「19世紀的展示空間」などというコンプレックス丸出しのカビの生えた価値観は捨てるべき。 そういうものを脱却して「箱」の使い方をもっと能動的に考えた方が生産的だ。 「箱の外」もそれはそれで限定的だ。 *展示について 残されたもの、と今行われていること、の違いについて興味がある。 それは解剖の作品の時から同じ。 (残されたものと今体験していることの間に階層が発生する。そのことと陰謀論の発生は繋がっている、のではないか?) 音楽で言えば、ライブと録音されたもの。 まず単純にライブは限定性があり、録音は無限性がある。 貨幣価値を持たせやすいのは限定性の方だが、考えがいがあるのは「無限性」の方だ。 無限性の方を箱に入れて考えてみる。 これだと単にずるいだけか・・ 投げ銭方式にしようか・・・ (ここは後でもっと考える) *インターネットとの関連。 これは多少理想論になるが、インターネットは歴史化されない。いや現実にはされるが、単線的「過去⇒現在」というものではない。いや、実際はそうなのだが、インターネットはもしかしたら、そうではない別の可能性があるかも知れない、という知見を提供してくれる。 インターネットのリアリティという対談で、jpgとbmpはどっちが硬いか、と話すという件があり、感銘を受けた。 つまりそういうことだ。身体感覚を伴うようになれば、本当に世間化したことになる。 それが特権的な体験ではなく、そういう話が「誰とでも」できるようになる、というのはとても重要だ。 宇宙人やUFOを「見てしまう」という心理は、端的に実在としてのそういう存在を否定する「論理的な」 側に付くことを意味する。(例えば荒俣宏が指摘した「死神」と「リトルグレイ」の類似性など) そういう方にも興味がある。 認識論としてのUFOだ。大乗仏教の「唯識」「物質の無限階層」に繋がっていく。 ただ、普通の意味の「イルミナティが世界を支配している」とか「UFOは宇宙人の乗り物で我々を監視している」といった「真実」も決して嫌いじゃない。 これらは「願望」だ。 われわれが満たされないのはイルミナティのロックフェラーやロスチャイルドという強大な神のせいであり、 いつか光り輝くUFOから宇宙人が下りてきて、我々を苦しみから解放してくれるのだ。 これは当然、上記の心理学及び認識論的な捉え方と矛盾する。するが、それは両立できないということじゃない。 例えばブライアンデパルマの「アンタッチャブル」では、ラスト間際、新聞記者に禁酒法が廃止されたことを聞かされ、これからどうするのかと問われた主人公はこう言う「一杯やるさ」 いつまでデュシャンとか言ってるのか、と考えたこともあったが、 考えてみれば人が言葉と文字を完成させるまでに数千年。 たかだか100年で物質と人との関係を考え切ったと考えるのはせっかちだ。
“このような考えのきっかけは、グレゴリー・ベイトソンの科学的で客観的な世界の知り方と、(一見その対極にある)人間の倫理や価値、神についての知識を統合するような「ものの知り方」を進化させることに努めた。この「ものの知り方」が目指すのは、科学的知識がそうするように世界を支配することではなく、よりよく生きるということに尽きる。ベイトソンの根本的な直観の一つはデカルト的な二元論として知られる世界観、世界が分割可能で、質量、次元、空間的位置づけのある物質と、分割不可能で、質量、次元、空間的位置づけのない精神/心という、互いに相容れない二つの異なる実体から成り立つとする世界観も否定だった。このデカルト的な分離した宇宙で、物質と精神とがどのように互いに振る舞い合うかは、デカルト依頼解決不能な問題として、人間を引き裂かれた存在にしてしまった。一方には、空間的な広がりがあって、物理学的、化学的法則に従属する有形の身体があり、他方には、身体の内側にはあるけれど、姿かたちがないからその一部とも言えない、どんな科学的法則にも従属していない無形の心がある、という生き物に。このようなデカルトが西洋的な思考に残した遺産は、心の動きに身体が何の影響も及ぼさないと言う仮定である。身体の働きは、せいぜい感覚器官を通じて情報を感知するくらいのものとされている。この前提に従うと、知識とはそれが誰の知識かに関わらず「そこにある」のであり、誰にも知られていなかった時から誰もが忘れ去ってしまった後まで、ずっと「そこにある」、ということになる。同じことが理性的判断についても言える。その判断を行うのが誰であれ、いくつもの前提が絶対的な結論を導くというわれだ。だが、心の働きが身体から独立しているというこの考え方がここまで広く普及しているのは、本当に意味することが理解されていないからに他ならない。いわば、全く吟味されないままの仮説でしかないのだ。”
http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-5721.html この本は正におれの考えていることを裏付けてくれる内容っぽいかも知れない。 読もう。
“一休禅師(1394~1481)は、さるお大尽に招かれた。一休は継ぎのあたったよれよれの袈裟衣を纏って出かけた。お大尽の屋敷の門に門番が立っていた。一休が門の中に入ろうとすると、門番は見咎めて、「これこれ、ここは乞食坊主の来る所ではない。帰れ。帰れ。」と追い返した。
追い帰された一休禅師は、金襴の袈裟衣に着替えて出直した。門番は丁重に頭を下げて奥へ案内しようとした。一休は、「先ほど来た時は、追い帰された。今回は丁重なもてなしである。このもてなしは、私に対してではなく、この金襴の袈裟衣に対してであると思う。それではこの袈裟衣を置いて私は帰ることとしよう。」と言って、金禰の袈裟衣をその場に脱ぎ捨てさっさと帰ってしまった。 一休禅師の世間に対する皮相的な諧謔である。現代でも、こうゆうことはざらにある。慎まねば成らない。 一方で、肩書のない人物の理屈の背後にはコピペと思い込みが潜んでいることがある。だから人は理屈の裏に密かに肩書を求め、2ちゃんねらー高校生の主張には眉を潜めるわけだ。 肩書の表象の一つが服装である。” もし「2ちゃんねらー高校生」なるものの発言がコピペだとしても、そのコピペの内容が、その時の話題において一定の妥当性があり、こちらのまだ知らない言説のコピペなんだとしたら、別にそれはそれで全然構わないのでは? インターネットでそのコピペを得たか、「2ちゃんねらー高校生」から得たかの違いは、ディスプレイか人間かの違いでしかないんだから。 「2ちゃんねらー高校生」みたいのが心理的にイラつくというのは発言の内容とは関係がない。 ※理想論です。
“ハローキティっていう、物語性が少なくてある意味、無色透明なキャラが世界中の子どもから大人の女性たちに至るまで何故ウケるのか?に関しては、当のサンリオの人でさえも明らかにしてくれない。とい当人にとってもかわからないというのが本音だろう、と書いてある。 ジェンダー理論を持ちだしてみたり、マーケティングの4Pを持ってしてもわからない。果ては複雑系理論まで例にあげているが、それでもこんなシンプルなファッション・アイコンがなぜ売れるのか?わからない。”
ある程度からはあれ交通渋滞のメカニズムと同じなんじゃないのかな? http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1204620156 キティちゃんの場合は「売れている」のが「安定状態」なんだよきっと。 キャラクターの質や物語性とかはむしろ必要なくて それらの因子は交通渋滞でいうと「個々の自動車がそれぞれ何処へ行こうとしているのか」に相当する。 けどそれは「交通渋滞が起こること」とはそもそも関係がない。 なんてね。
“監督はそこから「攻殻」やその続編「イノセンス」(04年)の受容について自らこう解説します。 「攻殻はアメリカとヨーロッパで受容のされ方が違う。ヨーロッパではオリエンタリズム、新たなサイバー・オリエンタリズムとして受け止められた。カンヌ映画祭(『イノセンス』がコンペ参加)やベネチア映画祭(『スカイ・クロラ』がコンペ参加)がなぜアニメを招聘(しょうへい)するのか? 学問や文芸の世界と同様に『周辺の文化』として参照しているに過ぎない。ギリシャ・ローマ的な、あるいはキリスト教的な『正統』とは異なる、『辺境』の文化・思想と見られている。一方のアメリカでは、攻殻は『ヤッピーの玩弄(がんろう)物』。やたら強い女性が哲学を語りながらマシンガン打ちまくるのがクールだ、と。ドラマや思想は関係なくて、ナイトクラブで繰り返し上映したりする。これはアメリカ流のグローバリズムみたいなもので、ヨーロッパ(のアカデミズム)と同様、両者とも自分たちの価値観から外側を語っているに過ぎない」 ”
こういう言説読むたびに思うんだけど、じゃあどうなれば満足なの? だっておれたちだってアメリカ始め他の国の文化を「外側」から語っているに過ぎないのに。 これって結局、言いたいのは文化的なことじゃなくて、経済のパワーゲームの主導権を ヨーロッパとかが握ってるからくやしいってことじゃないの。 外側か内側かなんてのは個人同士の共感/反感と同じでしょ。 他人の心をより理解してるかどうかの基準なんてどこにもないんだからさあ。 そういう齟齬にいちいち目くじら立ててどうすんのって。 この位の年代の人って政治意識がそのままアメリカ/ヨーロッパコンプレックスと結びついてるから めんどいよなあ。 まあ確かにアメリカ良い国とかまったく思ってないけど、コンプレックスに取り付かれすぎなのもどうかと思う。 トラック提供させていただきました。 トラック作るの7年ぶりか。 だんだん慣れてきた。 このトラックはもうちょい直してロングバージョンをウェブに放流する。 ここに http://ssppaamm.tumblr.com/ ゴッチのラップ入ったのもその内作ります。
端的に、西洋哲学の間違いというのは例えば思考と肉体が分離する、とか出来るとか考えてしまったことにある。
例えばアインシュタインの人間を超えた理があるという確信もその一つだ。 アインシュタインが認めなかったという量子力学。その歴史は古い。 今の物理学はそれを遥かに超えたところにもちろんある訳なんだけど、 「物質の起源」についてはやはり「人間が観る」ことによる限界がある。 坂田昌一さんの言う「物質の無限階層論」だ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E7%94%B0%E6%98%8C%E4%B8%80 これは突き詰めれば「あの丘の向こうには一体何があるのだろう」という人間の好奇心と移動の欲求、 (突き詰めれば、全ての物語は不可避的な「移動の欲求」についてのものだ。) そして人情的には「私の恋人は、私の知らないところで誰かと浮気をしているかも知れない」 みたいなことを思わず考えてしまうような「人情」に深く起因している。 我々が「観ようと」することそのものによって「階層」は生まれるからだ。 ここについてはタゴール先生及び大乗仏教がやはり本質に近いようだ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 素朴な世界観では未だにアインシュタインのような 「思考は肉体を超える/分けられる指向」というのが限界のようだ。 これは中途半端な「科学病」とでも言うようなものだ。 周りにいるほとんどの人はこの病気なので頭が痛い。 「言葉以外で他人とコミュニケーションを取る事など不可能、そういうあなただって、 文字と言葉で何かを伝えているでしょう?」 という反論もあると思うが、それはあなたもこのクソのような社会の恩恵を受けているのだから、 このクソ社会を変えるべきではない、というクソ発想と同じだ。 むしろもっと素朴になれば、思考が精神のみで存在するなど、 単なるシミュレーションでしかないことはすぐに解るはずだ。 例えば「感情」については、もう語りつくしたと皆思っている。そうだろうか? そして逆に「感情」以外に語るべきものはない、と考える人もいる。そうだろうか? 離れたところにあるゴミ箱にゴミを投げ入れるとき、何を考える?
サブカルの亡霊っていうのが多分いて、それはある種の表現の形式のようなことではなくて、
人が何かしらの切実な思いを抱えてやってることに対して「はいはいサブカルサブカル」みたいな 自分の黒歴史の投影として主に30代以上の人間がする超安易なレッテル貼りのことです。 平民さんのいう「人の行為にブレーキをかけるだけの」呪いみたいなもんなので、 何かを一生懸命やってる人は「サブカルですね」とか言ってくる化石の言葉は完全無視しましょう。 被害者が被害者で居続けるかどうかはそいつ自身が決めることです ただ、時々字義通りの意味で悪意無くこの言葉使ってくる人もいます。 が、紛らわしいので使わないに越したことないのではないでしょうか。
伝説のユーストリーム番組「山猫トゥナイト」の興奮も冷めやらぬままに、
またまた踊子軍団山猫が水戸のキワマリ荘に降臨&蹂躙します!!! 今度は何と時代劇!!そしてミュージカル!!! そしてそして、「カフェイン水戸2011」クロージングに合わせた今回の公演には 東京は新宿2丁目からスペシャルゲストにご登場いただきまう! マダムボンジュールジャンジさん! Madame Bonjour JohnJ 1990年より舞台に立つ。 日常も晴れ着でうたいつづける未来性器ダンサー/Female Drag Queen。 ![]() あらゆる境界線を超えたキラキラした世界を願う活動家。東京を拠点にフランス、ベルリン、ストックホルムなど世界を股にかける。 1997年より交歓のゲイミックスParty「ジューシィー!」をオーガナイズ。 主な作品:「Living Together /STAND ALONE」東京都写真美術館「ソロリサイタル3days」隅田川左岸劇場ベニサンピット「HUGたいそう」ワタリウム美術館,水戸芸術館,Googleほか。 新宿2丁目にあるHIV/エイズの情報センター&フリースペース「コミュニティセンターakta」を運営する「akta」代表、「Living Togetherのど自慢」等を企画恊働開催。 http://instant.typepad.com/johnj/ http://instant.typepad.com/juicy/ そして演目の方は、題まして『山猫忍法帖~秋の特別編~feat.マダムボンジュール・ジャンジ』!! ![]() 秋冷の荒野を歩く、くの一がひとり。明るい満月が妖しげな影を引く。ひとしれず探していた運命の謎解き。いつの時代も誰もが探している宝、その正体はいったいなんなのか?数奇な運命のいたずらが四人のくの一を翻弄する。最後につかんだその宝には、君が生きる理由があった。さぁさお立ち合い!笑うも泣くもお好きにどうぞ!人生はいつだって自由席。行き先は新しい明日!傷つくことを恐れない、彼女たちが魅せる今夜限りのミュージカル!!さぁさお立ち合い! 日時は10月16日、18時30分会場、19時スタート!約1時間半の公演になります。 今回は初の予約制、アンド入場料500円になります!(ドリンク代別) お席はわずか30席、ご予約は件名を「山猫ミュージカル予約係」として お名前と連絡先を明記の上odorikoyamaneko@gmail.comまでメールして下さい。 ※キワマリ荘に駐車場はございませんのでくれぐれもご注意下さい! 徒歩か近隣のコインパーキング等をご利用下さい。
ふと思ったのだが、
普通、「生きている」という状態は「息をしている」ことの上位概念というか、 「息をする」ことは「生きている」ことの派生的な現象と何となく考えられていると思うが、 実は全くの逆で、「呼吸」がまずあって、そこに生きている状態が現れる、という方がどちらかといえば正しいのではないか。 もちろん「呼吸」というのは酸素を吸って二酸化炭素を出すというような限定的なことではなく、 あらゆる種類の「出て、入る」ダイナミクスのことを指している。 ところで、解剖の映像を作ったとき、人形の性器をどうするか少し悩んだ。 性器が無いというのもなんだし、当初は男性でも女性でもない性器を作ろうかと思ったのだが、 考えてみると、性器のみならず、おしなべて造形というものを大別すれば「出っ張っている」か「引っ込んでいる」かのどちらかしかなく、 どうアレンジしようとも、上記の2種類の範疇にしかならないのである。 皆さんも男性器でも女性器でもない性器を考えてみて欲しい。 きっと、どうあがいても膨らんでいるか引っ込んでいるかの選択以外ありえないはずだ。 つまるところ、結局人間に担当できるのは「2」までということか。 「出す、入れる」「入る、出る」。 「3」は神さまの数字だそうですね。
光速を超える素粒子確認されましたね。
ぼくは知っていたよ。 もう消してしまったが以前の2つの記事が鮮やかにそれを予言してしまいました。 今回の件がもし間違いだったとしても全然大丈夫。 そのこと自体は正しい。 あとは「宇宙空間にも生物が存在すること」だな。
gotouhidekado Solo show
pfreoeblaibniglsityone 2011.10.13(THU)-10.30(SUN)@mograg garage オープン:木・金・土・日 14:00~20:00 レセプションパーティー:10月22日(土)18:00~ ![]() ![]() ![]() これは脱獄計画であり、その為の武器であり、絶望を部屋の隅に追いやる為の詩と、歌だ。 歴史と記憶、今何かを見ていることと何かを思い出すこと、幽霊、夢、確率と心情、音を聴くこと、庭について。 tumblr mograg garage 〒184-0015 東京都小金井市貫井北町 5-12-4 1F tel&fax:042-315-4559 mail:http://mograg.com/contact.html twitter ID:mograggarage *mograg RADIO ポッドキャストで好評配信中 http://mograg.com
昨日風呂に入っている時2つの何かを思いついて、あとで書き付けようと思っていたが一つは何か忘れてしまった。
もう一つは光の速さと月のことで、それは憶えている。 このことを考えるのはきっと何度目かだから、憶えているのだろう。 光の速さというのは、とても早く、秒速30万キロだそうだ。 光が月に届くまでにかかる時間は大体1.5秒、今調べたところによるとだ。 物理学の世界では未だに、この世界に光より速いものはない、という説が一定の真理であり続けているようだ。 しかしもし誰かが、月の話をするとか、或いはただ「月」という言葉を口にしたとき、それを話した人、及びそれを聞いた人の中に、月の姿が思い浮かぶまでには、恐らく1.5秒もかからないだろう。 もちろん月というのを見たことがあって、月という言葉が何を意味しているか知っていなければならないが、 それはもう、時間として感覚できない速さで、光の1.5秒という記録を余裕で超える。 このように、光より早いものはぼくたちの身近にある。 それは「思い」であり、「憶えている」ということだ。 これを科学技術として利用すれば、一瞬どころか、時間の経過ゼロで我々は月へ行ける。月だけではなく、憶えている限りどこへでもだ。 ああ、解ってる、今君はこう思っただろう 「心に思い浮かべることと、実際に行くのは違う」そう、その通りだ。 しかし、では、何が違うだろう。月を思い出すことと、実際に歩いて、とか走って、とか動いて、移動する、ということが。 そう、動く、走る、歩く、移動する。それは身体のことだ。いくら心に大きく月を描いても、目の前はパソコンのモニターだし、いくら眼を閉じても、この部屋のエアコンは、ぼくの身体に心地よく無機質な風を当て続けるし、癒しの持続音を吐き出し続ける。 この椅子はぼくの尻を下からすごい力で圧迫しつづけているし、音も聞こえる、特に人の話し声だ。 人は、人の話し声に相当する周波数を最もよく聞き取る。 これらのことが、ぼくが今、月にいるのではなく、この時間、ある部屋の、机に座り、キーボードを叩いている、と信じさせ、それ以外の、そうでないかもしれない状態について考えるのを止めさせる。これらはとても強い力で、その障害であり続ける。 「思い」というのはいつもあっちへこっちへと、忙しく飛び回っているものだ。 ついさっき月のことをチラチラッと考えたと思えば、次の瞬間には、どこかから漂う煮詰まったコーヒーの匂いが気に入らない。 毎日酷い暑さだというのに、熱く煮詰まったコーヒーなど一体誰が作ったのだろう、耳鼻科に行ったみーちゃんは今頃どんな顔をしてるだろうか。 これらは皆、傾注、細分化されたアテンションの連続だ。 人間というのは一瞬の内に、あらゆることにわずかずつ注意を向けたり、そうしなかったりを繰り返している。 実際、心の中はいつもバラバラだ。 そんなことはない、私の心はバラバラなどではない、いつも心に一つ、信じるものを持っている、なんていう人もいるかも知れない。 そんなの、それはただ、そのバラバラの具合に気付いてないだけだろう。 身体は物の領域で全てを規定して、一つの纏まりであるかのように振舞う。 言葉だって、物だ。言葉にすれば、声に出せば、その場では、物の領域に転移するから、 言葉は心の表れとして、一つの纏まりになったかのように振舞う、というだけなのです。 だから、心はさっき言ったような「尻の下を突き上げるように圧迫する椅子の存在」に勝つことができない。 この椅子は、とても強い。一瞬も途切れることなくぼくの尻を圧迫する。どんな感覚であるか、擬音語や、擬態語で表現しようにも、途切れない皮膚感覚というのは、音にするのが難しい。音は始まりと減退、終わりがなければ、なかなかそうとは認められないからだ。 あのエアコンも、まだまだとてつもない強情を吐き出し続けている。 だから、仮に、人間が、周りにある色んなことを少しずつ、つまみ食いのように感覚するのを止め、ずっと、例えば何時間も、もしかしたら何年も、月のことだけを、月を心に浮かべる、ということだけを続けられたら、この愚鈍な身体の方もいつかそこに少しずつ馴染んで、最後には身体ごと月まで移動できるかもしれない。 よし、いっちょやってみようか。 まず、目を閉じよう。 目を閉じたからと言って、光が全て消える訳じゃない。 知ってるだろう。瞼の裏側では、カラフルで細やかな、幾何学模様がいつも踊ってる。 ぼくの場合、風邪のひき始め、まだ症状が出ていない状態で眠りにつくと、瞼の向こうから青い巨大な光が、いくつも飛んでくる。 それを見て、ぼくは自分が風邪を引いていることにいつも気がつくのだ。 まあ、いい。 これも、月へ行くための一つの障害になる。 * * * * * * * * * 光が消えた。 本当に、全ての光が消えてしまった。 * * * * * * * * * * 尻を圧迫する椅子が、消えた。 意外に早かったな。 「尻を圧迫する椅子」というどこか重苦しいフレーズがそう思わせたのだろうが、意外にもそうではなかったようだ。 * * あんなに強情だったエアコンも消えてしまった。 もう、肌に当たる心地よく無機的な風を感じない。 だが、まだエアコンの口から吐き出される風の、別の様態を感じる、そう、音だ。 まだぼくが、月ではない場所にいることを、この音が同定する。 * * * * * * * 音が消えた。 人の声も、消えた。 音は消えても、人の声は最後まで残るとか、ロマンチックなことを考えていたが、身体とは薄情なものだ。 他の音と一緒に、人の声も簡単に消えてしまった。 * * * * * * * * * 私は月にいた。 気がつくと、私は月の地平線から3分の一ほど覗いている地球の姿と、その回り全てに広がる、真っ黒い空間を眺めている。 ここは私が、図鑑や、テレビや、インターネットで見た、月そのものだ。 足元を見れば、大昔のアメリカ人がつけたであろう、大きな靴の跡を見つけることもできた。 それは、誰も見たことが無いというあの、月の裏側の方へ続いている。 そっちへ行ってみようと思う。誰も見たことのない月の裏側をこの目で見てみたい。 そうだ、身体があれば、見たことのない場所へも、歩いていけるのだ。 けれど、私は今や、身体ごと月にいるのだ。ご存知ですか。月はとても寒い。 寒いし、子どもの頃図鑑で読んだ限り、月の大気は地球のそれとは組成がまるで違う。 いや空気というようなものは、殆どないのだったか。或いは全然か、記憶が曖昧だが、調べることもできない。 この場所は月であり、インターネットはここにはないからだ。 地球にいる時のように、空気は動かない、だから音は、地球にいる時のようには聞こえないが、より注意深くなれば、音のような感覚があることは、ある。 これはもしかすると音子(フォノン)が私の身体を構成する粒子にぶつかって、弾けているのを、直接音のように知覚しているのかも知れない。 ふむ、なかなか興味深い。 まあ、そんなことより何より、素朴に空気が無いということは、私はこの身体を地球にいる時のように扱うことが出来ないのだから、 だから私は、月に着いてから割とすぐに死んでしまった。 身体はいつしか粉々に砕け散り、月の裏側を見ることはついにできなかった。 * そして気がつくと、そこはまだ昨日で、ぼくは風呂場でだらしなく伸びた髪の毛を洗っている最中だった。 * というイマイチな結末を考えながら、おれは昼飯のグレープフルーツを4つ切りにしたものをかじり、 パソコンの前に座り、モニターを眺めている。 酸っぱい。 ![]() そんな殻を背負ってたら、本当のラブソングなんて歌えない♥ だからいま、すべてどっさり脱ぎ捨てて、今夜あなたに会いにいく♥ そのクソ暑い部屋の中で、あなたは何を迷うのか、 懐かしい愛の歌、今宵あなたと抱き合える♥ 2011真夏の猫の物語♥ ユドンスタップドリーミング!!♥ 山猫からの、生温かいラブレター♥ 「夏だよ!!山猫トゥナイト5時間(えっ)スペシャル~あながち、マジ!?~」 8月20日(土)夜19時~5時間位?生放送!! 出演:山猫(かっちゃん、たみちゃん、みーちゃん) うんけん(ドドイッツ) 水戸コンドリア(元女子高生アイドルユニット) 寺ちゃん(spaceAFA) などなど・・・というか未定 司会:GOCCI(ランチライムスピークス) 演目:山猫ベストテン、山猫の穴、山猫懺悔室、山猫三姉妹物語、水戸コンドリアスペシャルライブ、などなど・・・ 見逃すな!! " 人生で、あらかじめ準備しておけることなど、実はあまりない。大人の仕事は常にやっつけ仕事、恋はいつでも初舞台だ。 "(via)
新しい技術やそれに伴うメディアが登場すると、そこには性懲りもなく新しいオカルトが登場する。
最近は太陽が高解像度で撮影できるようになった。 すると太陽の周りを、地球よりデカイ宇宙船がいっぱい飛んでいるのが発見されたらしい。 信じがたい2つの映像 全く笑ってしまう。 けど、嫌いじゃない、この感じ。 太陽の周りを、高度な文明を持つ人たちが飛び回ってて欲しい。 この気持ちどうしたらいいんだろう。 この性懲りも無い人間の性には泣き笑いが止まらない感があるが、 かといって科学的なアティチュードによって、似非科学糾弾をするつもりもない。 そういうのも、何か間違っている気がどうしても、する。 けど、例の放射能のアレのおかげで、そういう曖昧な態度にトドメを刺された。 これはどうしようもない、放射線は、殺伐とした現実の領域に侵入してきて、おれの心臓を突き刺し、 名指しで批判している。 放射能に対して最も有効なのは「科学的態度」以外にない。 乳酸菌米の研ぎ汁が放射能を体外に排出してくれる? アホか。 ついでにおれは節電などするつもりはない。 しかし、はあ、どうしたらいい。 正直、分からない。 この問題に対して、みんなどう折り合いをつけているのか? 震災前から、この世界の基盤である科学の発展を知らなければならないと思いざっと調べていた、 というか、「磁力と重力の発見」という本の1巻を読んだだけなのだが、 1巻は17世紀辺りで終わっているので、2巻以降を読んで放射線の発見の経緯を知らなくてはならない。 が、地震の影響で茨城県立図書館は未だ閉館したままだ。 ああ。 確実に、バカになっている。
こないだ福島で夏にフェスを計画している大友良英さんが水戸に来たので、久しぶりに会うことができた。
飲み屋に行って、みんなで色んな話をしたのだが、まあ大体は原発、放射能の話だった。 大友さんは明確な意志を持ちながら、安易な2項対立に議論を落とさないように細心の注意を払い、 かつ力強くプロジェクトを進めていて、改めてすごい人だなーと思ったし、 現場で多くの専門家と共に動いている大友さんから出る話はとても信頼でき、示唆に富んだものが多かった。 ネットの中や噂レベルの話とは当然訳が違うのだった。 その中でぼくは「心情」と「確率」は異常に相性が悪い、ということを言ったのだが、誰もピンと来ていないようだった。 いや、ピンと来ていなかったのではなく、皆「そんなこと言ったってしょうがないじゃん」と思っていたのかも知れないが、 ぼくのその発言より遥かに正確に、明確にぼくの恐らく言いたかったことを言ってくれている有名ブログがある。 アンカテ-日本教と原子力問題 といってもあの時あの場にいた人は多分このブログ読んでないと思うけどまあいい。
キワマリ荘ガレージセールが終わった。
何だかすごく楽しかった。 色々と考えすぎてしまう方のぼくとかには 実現不可能な感じのすばらしいイベントだ。 ぼくは色々思うところあるが敢えて自分の描いた絵を売り出した。 出展者の方が絵を観てくれた時、一緒にキワマリ荘をやってる中崎くんと 松本美枝子さんが、ぼくのことを色々紹介してくれた。 するとその出展の方が「なんだか皆で私のこと騙そうとしてるみたい」 と冗談で言ったのだが、それを聞いてハッとした。 そうだ、2人がぼくのことを紹介してくれたことはとても嬉しかったんだけど、 確かにこれはまるで原宿の小さいスペースで道行く人に ラッセンの絵を売りつけるようなことと区別がつかない、と思って、中崎くんに言ったら、笑ってた。 けどこれは、すごく根本的な問題だ。 かつて遊戯室で展示をした美術家、白川昌生さんも自身のトークイベントで 「蚤の市のような物々交換会で芸術作品を交えると芸術作品はは最後まで残る」 「芸術作品」はゴミクズになる。我々はゴミクズを作っている、 というようなことを確か言っていた。 けど白川さんはもちろん、美術を卑下する意味で言っているのではなく、 非常に重要で、切実な問題としてこの話を扱っていたはずだ。 ぼくはとりあえず、スタイルとして作品を自力で売る、 ということを少しずつやってみているのだが、あまり上手くはいっていない。 始めたばかりなので気が早いのだが、仕組みとしての限界
放射性物質は燃やそうが溶かそうが決して無くならないしその性質を絶対に変えない、
という科学的事実は「おれたち宇宙と一つだぜベイベー」みたいな安いスピリチュアリズムと 奇妙な合一を果たして、異常に殺伐とした現実の領域で、当たり前のこととして認識されることになった。
観ることを触ったり、手触りを見るみたいなこと、
見えないし触れないけど確かにそこにあるぞ、みたいなことが、 ニンテンドーのコントローラでははあ面白いなーと思えるみたいなことが、 いやまて、絵を観ることも実はそんな感じで面白いだろ、みたいなことが また反転してくるといいよなあ、という感じで、 そういう見えるものをただ見るだけのことだと、 量子物理学でいう不確定性原理みたいなパラドックスになって、 (本当は聞きかじりの科学用語で何かを説明するの止めたい!) けど起きることは割と正確に予想はできるので、技術的には使える、 けどそれは外に置くしかないからコンピューターとかに使うしかない、みたいな感じなんだけど、 本当はそのことは内にあるし、技術ではなく内内で利用する仕方があって、 絵を観ることはそのことの練習になるのではないか、とか。 そのことを知っているから、ハイゼンベルクは荒川修作の作品が気に入ったのではないか。 ペンローズのあれとか、本当に正しいんじゃないの。 そしてそれが本当に分かったら、素朴な世界観では、 例えば放射能を気にすること、あなたは神経質だ、という意見に対して、 いやあなたが大雑把なだけだと返されれば終わりなような、 科学が人の心を救わずに、ただ価値観を押し付けるだけのようなことを もしかすると溶かすことができるのでは、などと。 いや、分かんないけど ぼくもなるべくフェアでありたいと思っているんだけど、 例えば有馬かおるさんや、大友良英さんという人はすごくフェアな感じがする人で、 それは何故かといえば、そういう、触れないし見えないけど、確かにあるぞ、 けどそういうのは強硬に主張すればむこうもこっちも逃げ出してしまうし、なんか そういうものに対する判断をどこまでも留保することでしか、 そいつを近くに置いておけないというような感覚、よく分からないけど、そういうの。 なんかそういうのが、これから特に大事なんだろうと思う。 ただ、それは何の役にも立たない単に抽象的なだけの相対主義のようなこととは全然違う。 全然違うぞ。
昔の記事をほとんど非公開にしてしまったので、
みーちゃんの絵だけ見られるブログ作りました。 随時アップしていきます。 タンブラユーザーはどんどんリブログして下さい。 Tシャツも新しく作り直しておりますので また後で。 ちびども
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